国宝 東求堂 同仁斎

先日、京都に行った折、東山慈照寺(銀閣寺)を訪れ、秋の特別公開で国宝・東求堂(とうぐどう)を拝観しました。
慈照寺は、室町幕府八代将軍 足利義政公により造営された山荘(東山殿)を起源として、義政公を中心に形成された東山文化の発祥地であり、日本人の近世的な生活文化の発端をなしていると評されています。

境内にある東求堂は一層の入母屋造りの阿弥陀堂ですが、むしろ堂内の北東側にある四畳半の同仁斎(どうじんさい)が現存する最古の書院造りとして有名です。
四畳半とはいえ室内は二重に長押が廻され、天井が高く狭さを感じません。
また、四畳半中央の半畳は、その下には炉があり湯を沸かして茶をしたとされ草庵茶室の源流、四畳半間取りの始まりともいわれています。

同仁斎は義政公が書斎としたとされる部屋ですが、一間の付書院と半間の違い棚には、特別公開という事で美術工芸品からなる書院飾りが再現されていました。
付書院には義政公愛用の硯を中心に、墨、筆、巻物など、左脇の違い棚に天目茶碗などが当時の記録を基に飾られていました。
書院の北の窓からは安定した光が入り、明かり障子を通し柔らかな拡散光となって、これらの調度品を美しく照らし出します。
そして、書院の障子を軸巾ほどに引き分ければ、その先にある外庭の滝が掛け軸の如く見えるという趣向です。

五百年の時を越え、光と空間の拡がりを感じつつ、四畳半という有限の空間が、かくも色調高く大きく拡がり得るものかと、しばし佇みました。
室外に出て建物を北側から見ると、付書院が縁側に張り出しているのがよくわかります。この僅かな空間が、部屋全体を豊かにしているのかと思うと驚きを隠せませんでした。
初期書院造りの同仁斎は、床の間が発生する以前の姿を残す遺構ですが、後に格式ある書院の形式が確立され、さらに洗練された数寄屋の空間が生まれるその経緯についても興味が湧いてきます。

私が訪れた日は、庭師の方々が庭を整備していました。

おりしも台風19号襲来の後で、庭もかなり損傷を受けたかと思いましたが、さほどの影響は無く定期整備が行われていたということで、作業を間近に見られた事は幸運でした。

中でも、砂盛で形づくる、向月台(こうげつだい)の作業は、海外からの観光客が見入っていましたが、日本人といえど大変興味深い作業です。

 

向月台を囲み四人がかりで、左官職が使う鏝板のような道具を両手に持ち、息の合った作業で見事に均整のとれた形をつくりだしていました。聞けば、材料は京都の白川砂に土と水だけというから驚きました。

この向月台の先にある銀紗灘(ぎんしゃだん)も、しっかりとした軸線で形取られ、背景の山並みと相まって、人工美と天然美との対比が際立つ面白さがあります。

 裏山にかけ、山裾の苔庭を巡ります。
禅僧夢想国師を追慕した義政公は、幾度となく西芳寺(苔寺)を訪れ、この苔庭を造営したとの事ですが、山路を歩くような奥深さを感じます。

 山裾から清水が湧きだす「お茶の井」は、現在でもお茶会にも使用されている義政公愛用のお茶の井跡です。この石組が茶庭の蹲踞前の石組の源流との事ですが、確かに両脇には手桶石と湯桶石のような石が見受けられます。

戦乱の世にありながら、義政公が八年の歳月を費やし、自らの美意識を投影した東山殿は、東山文化を生み出す舞台として、かつて十二を数える亭舎が配置されたといいます。
現存する、観音堂と東求堂の二つの国宝は、その名残りとなる文化遺産です。

染まり始めた紅葉山の高台より境内を見渡し、かつて東山に築かれた文化的境地はどのようなものだったのかと、しばらく考えを巡らしつつ、沈みゆく陽に向かい東山を後にしました。

同仁斎 書院・平面図の写真/出典:「茶室露地大辞典」淡交社