四国村 -古建築を集めた野外博物館-

(写真:四国村入口にある看板)

先日、四国を訪れる機会がありましたので、香川県高松市屋島にある四国村に行ってきました。

四国村は江戸から大正時代にかけて、四国各地で建てられた民家を中心とする約33棟の建築物を集めて復元させた屋外型の博物館です。約半数以上が国や県、市の指定文化財であり、地域色豊かな建築物を通して、往時の日本人の暮らしや大工職人の伝統技術などを学ぶことができます。

 

 
 (写真:農村歌舞伎舞台)

農村歌舞伎舞台と呼ばれるこの建物は、江戸時代につくられ、春と秋に村民自らが演者となって歌舞伎を楽しまれた舞台です。その後、昭和52年に移築され、現在は市の指定文化財に指定されています。

建物は間口約10.9m、奥行約8.2mと、舞台としては少し小さくも感じますが、建物を中心に円弧を描くようにずらっと並んだ観覧席が、建物と野外の一体感を演出しているように感じました。
また往時は歌舞伎の場面転換をスムーズにするために舞台の円形の床を人力で回転させる「廻り舞台」が設けられていたようです。

現在は、舞台の上手から下手までひな壇がビッシリと飾られていたこともあり、往時の賑やかな情景が思い浮かばれました。古建築の利活用は往時の文化を蘇らせてくれる貴重な取り組みだと改めて感じました。

 

 
 (写真:旧山下家住宅)

旧山下家住宅と呼ばれるこの建物は、江戸時代につくられた香川県東端の山腹にあった農家で、移築後は昭和56年に県の有形文化財に指定されています。

間口約8m×奥行4.5mの寄棟造の平屋建てで、農作業をする土間とかまどで食事をとる座敷に分かれていました。土間に足を踏み入れて上を見上げた瞬間、茅葺き屋根の美しい下地が目に飛び込んできました。
木と竹が格子状に藁縄で結われた構造からは、繊細な技術で造られた職人の丹念な仕事ぶりが目に浮かぶようで、その美しさに暫し酔いしれていました。

柱は名建築みがき隊の拠点でもあります熱海・東山荘別館と同じ、チョウナで表面加工が施された栗材が用いられていました。その中で、室内の中央に立つ大黒柱には、往時の生活の息吹が様々な痕跡となって残されており、このような風貌になるまで使い、守り、継承されてきた先人たちの強い信念を感じました。

 

 
 (写真:旧下木家住宅)

旧下木家住宅と呼ばれるこの建物は、江戸時代に徳島県の一宇村で造られた民家で、昭和51年に移築・復元され、現在は国の重要文化財に指定されています。間口約14m、奥行9mの寄棟造茅葺きの平屋建です。

構造体は大きく上下に分けられ、上部には太い梁を格子状に組み合せた木組み、そして下部には「おとしこみ方式」(上下2本の梁に穴を開けて1本の柱を通す)と呼ばれる柱・梁の木組みで構成されていました。この2つの組合せで構造はより丈夫になり、柱や内壁の少ない大空間がそこにありました。この特徴的な構造はこの村が発祥地ということもあり、大工職人が生んだ伝統技術を往時の形のまま受け継いできてくれたからこそ、建物は魂をもって生きているように思えました。

また、家人が亡くなった際、魂が家に宿ることを願って、湯灌の水を仏壇前の床下に流す慣習があったようです。建物は先祖代々の想いを受け継いで繋がることのできる唯一無二のよすがとして、人々の精神の柱、生きる源とされていたのだろうと感じました。

 

(写真:四国村パンフレット)

伝統的な建築の型式が受け継がれる中で、地域の風土や当時の生活慣習に合わせて造られてきた建物からは家人の息吹や大工職人の知恵の一端が垣間見られ、往時のありのままの状態を継承する大切さを改めて感じます。復元についても使用材料が往時のままであれば、風趣に富む希少な建物となり、時代を跨いで先人に思いを馳せることができるのだろうと思います。

四国村の開設者である加藤達雄さんは、四国各地に古民家が点在して放置されている実態を知り、保存活動に尽力されたようです。その想いは受け継がれ、現在息子にあたる加藤秀樹さんは、四国村の理事長や構想日本の代表などを務められ、日本各地にある様々な魅力を活用していこうと幅広く活躍されています。
実は昨年3月、加藤秀樹さんは熱海・東山荘に「建築探訪の会」として来訪され、みがき隊事務局がご案内しておりました。これも何かのご縁でしょうか。

建物に関わらず、本当に良いものは後世に残っていくエネルギーを秘めていると思いました。その上で、加藤さんたちのように、各時代の人たちの手によって大事に守られ継承されてきた事実、証こそが、今を生きる私たちに感動と文化を届けてくれるのだろうと感じました。



記事投稿:名建築・みがき隊チーフ 今野貴広